Another weather forecast:初雪



「ちゃんとネクタイ締めた? スーツ皺になってないわね? ハンカチ持ちなさいよ!」
「わかってるよ! 大丈夫!」
 隣の部屋から飛んでくるアマネの声にライは叫び返した。実際のところネクタイは首にゆるく巻いてあるだけ、スーツは皺だらけ、ハンカチに至っては部屋の中に存在しているかどうかすら怪しい。どうしようかとライが頭を抱えていると、ぴんぽんとチャイムが鳴った。
「ライお願い!」
「わかった!」
 執行猶予に感謝しながらライは階段を駆け降りた。慣れないスーツで尻尾が窮屈だ。玄関を開けるとナルカミがいた。青のジーンズに灰色のセーター、その上に薄緑のダウンジャケットと、実にラフな格好だ。気軽に片手を上げる伯父に、ライは頭を下げた。
「あけましておめでとう、ライ。どうした、スーツなんか着て」
「姉さんが折角だからちゃんとした服を着ていこうって……それで、まあ……」
「……似合ってないこともないぞ、ライ」
 嘘がつけないナルカミに、ライは曖昧に頬笑み返した。鏡は見ていないが、今の自分の格好がアマネの要求を満たしていないことはよくわかっている。わかっているが、果たしてどうすればいいのやら、ライには見当もつかなかった。
「伯父さん、ネクタイの結び方ってわかりますか?」
 ふと聞いてみると、ナルカミはゆるやかに目を逸らした。仲良くしようと言いながらいまだに何の仕事をやっているかすら教えてくれない伯父だが、こういうところで変に血の繋がりを実感してしまう。せめてもの抵抗に、ライは少しだけスーツの裾を引っ張ってみた。皺は伸びない。


 アマネ、ライ、ナルカミ。三人での初詣を言い出したのは意外なことにアマネだった。
 ほんの一週間ほど前、泣きじゃくるライからクリスマスに起こったどうしようもない喧嘩を相談されたとき、ナルカミはライを引き取ることまで覚悟した。普段は傍から見ていて危機感を覚えるほど仲がいい姉弟だが、その反動なのかたまの喧嘩がひやりとするほど深刻なのだ。数日で何がどう解決したのかは知らないが、姉弟は無事仲直りと相成ったらしい。それを恥ずかしそうに電話で告げた後、アマネはナルカミの予定を聞いてきた。新年は適当に過ごすつもりだったナルカミが素直に実情を答えると、それならば、と誘われたのだ。ホテルの一室で相談を受けてから姪の態度は大分硬化していたが、ここに来てどんな心境の変化があったのか。アマネに直接聞くわけにもいかず、ライに聞いてわかるわけもなく。どちらにせよ、この危うい姉弟と仲良くしたいナルカミが断るわけもなかった。

「アマネちゃんは?」
 ナルカミが聞くとライは上を指さした。
「姉さんは振袖着てます。大分難しいみたいで」
「そうか」
 そうまで言うなら手伝ってやればいいのにと思ったが、甥では邪魔になるだけだろう。なにしろ自分でネクタイも結べないような有様だ。顔をしかめるのと同時に、ぱたんとドアが閉まる音がした。すとすとと階段を降りてくる音がする。ひょっと逃げ腰になったライの肩を捕まえて、ナルカミはじっと待った。
 そして、アマネが来た。
 しっとりと上品な蘇芳の下地に白い柳が立ち、その上に桜色の雨が降りそそいでいる。淡い山吹色の帯が艶やかな黒毛を引き立てる。恥じらいを含んでやや細められている青い瞳。母親を引き写したような、見事な晴れ姿だった。
 あまりにも、ワウに似ていた。
 言葉に詰まる。在りし日にこれを着てはしゃいでいた妹の姿が苦い痛みをもってナルカミの胸を潰した。
「どっ……どうですか?」
 姪の言葉に自分はどう返しただろうか。自信がないが褒めたのだろう。その口元にふっと笑みがこぼれた。隣でぽかんと口を開けていたライはこれでもかと褒めちぎっている。照れたアマネにぺしんとはたかれて、えへへと笑っていた。
「ライ、ネクタイ結べてないじゃない」
「あ、ごめん」
「やってあげるから。ほら、首出しなさい」
 黒い手が中途半端に絡まっていたネクタイをほどき、きれいな形に整えていく。なぜだかこの場にいてはいけないような気がして、ナルカミは少しだけ姉弟から離れた。
「昨日教えたでしょ? わかったって言ってたじゃない」
「うん……そういえば姉さん、着物って下着はどうなってるの?」
 その一言で、和やかな空気だった玄関にひしりと冷たい霜が降りた。単に興味だけで聞いたらしいライはそれに気づくこともなく不思議そうにしている。
「ライ。今、なんて言ったのかしら」
 アマネは頬笑みを崩さずに言うが、その言葉には凄みが感じられた。自分が叱られたようでナルカミは怯んでしまう。聞こえていないわけもない。執行猶予だ。
 そして、ひょいと首をかしげた甥は、すぐにああと頷いた。
「姉さんパンツ穿いてないの?」
 あまり似ていない姉弟だが、怒ったときの顔はよく似ているのをナルカミは知った。

「パーキング空いててよかったよ」
「そうですね。車出して下さってありがとうございます」
「いいよ、そんなの」
 無事駐車場に車を停めた三人は神社へと向かっていた。これくらいのやり取りならいつものことなのか、さっきまで涙目だったライもけろっとして前を歩いている。続くアマネは慣れない着物で歩きづらそうにしながらも楽しそうに尻尾を揺らしていた。一番後ろでその後ろ姿に見惚れながら、ナルカミはそっと溜息をつく。アマネに盛装してきてほしいと言われたのをうっかり忘れていた。何か言われたわけではないが、内心がっかりしていたりするのかと思う。それに。こちらの勝手とはいえ見栄を張って高級外車を借りてきていたりするのだが、姉弟の反応は薄かった。アマネはまだ仕方ないとしても、ライも車種を聞いたところできょとんとしているだけだった。今時の仔は皆そんなものだろうか。今度からはいつも乗っているジープで来ようかと思う。
 神社は思ったよりも空いていた。ライによればもっと大規模な神社が隣町にあるらしい。そちらはいいのかというナルカミの問いに毎年ここでしたからとアマネは笑った。
 階段を登って境内に入る。家族連れが多かった。自分たちも彼らと同じ家族連れに分類されるのだろうか。ふとそんなことを考える。ふらふらと出店に引き寄せられていくライを咎めようとしたアマネが足をもつれさせ、すぐさま駆け戻ってきたライに支えられた。
「姉さん大丈夫? おんぶとかしようか?」
「大丈夫。それよりライ、買い食いはお参りの後だからね」
「わ、わかってるよ。ただどんなのがあるか見てただけで」
 先程隠れて鯛焼きを買っていたナルカミは手をそっと後ろに隠した。疾しいのが態度に出ていたか、アマネが怪訝な表情で振り向く。
「どうかしました?」
「いや、なんでもないよ。ほら行こう行こう」
 鯛焼きを買ったのは失敗だったかもしれない。片づけようにも一気に食べては喉に詰まってしまう。
「髭にソースついてますよ」
「えっ」
 慌てて手をやるが、もちろんそんなものがついているはずもない。甥はしてやったりとにやにやしていた。アマネは呆れたといった風情で肩を竦めて歩きだす。
「……このやろ」
「へへ」
 生意気に笑う甥にナルカミは鯛焼きを半分ほど食わせてやった。


 指を離れた百円硬貨がちりんと涼しげな音を立てて賽銭箱の中に消えていく。からからと鈴を鳴らしてライは頭を下げた。隣でアマネも同じように頭を下げている。ナルカミは拝殿に行く途中で人ごみに押し流され、別の賽銭箱に並んでしまったようだった。二拝。二拍手。一拝。教わった通りに、アマネとタイミングを合わせて。最後の一拝を終えてライが頭を上げると、アマネはまだきゅっと目を瞑って何事か願っていた。願いも忘れ、ライはその横顔に目を奪われる。こういうとき、自分は姉のことが好きなのだなと思う。苦難に耐えるかのような姉の姿。守りたいと思う。欲しいと思う。受け入れてもらえるものなら今すぐここで抱きしめて、思い切りキスして、この人は俺のものなんだと宣言してしまいたい。じっと見つめていると、寒海から掬ってきたような青の瞳がゆっくりと開かれて、ライを認めた。
「ライ、お願いはしたの?」
 いてもたってもいられずライはその右手をそっと奪った。温かく柔らかな黒い手の感触を握りしめ、そっと引っ張る。
「はぐれると、いけないから」
 言い訳にもなっていない言葉を、姉は頬笑み一つで許してくれた。


 ちゃんとしたお正月ができて、よかった。そう思う。
 父さんと母さんが死んでから、初めてのお正月。あの日から捩じ曲がってしまった私とライの関係は、いびつながらも徐々に落ちついてきている。普通の姉弟の形ではないけれど、少なくとも、ひどい形ではない。伯父さんも誘うことができてよかった。忙しいのか暇なのかよくわからない人だけどよく来てくれて、なにかと気にかけてくれる。ライの想いにも感づいてどうにか防ごうとしてくれているようだ。彼がいなかったら事態はもっと悪いことになっていただろうと思う。第三者の目がある限り、ライもエスカレートすることはないはずだ。そうやって、少しずつ、普通の姉弟の関係に戻していけばいい。一緒に初詣に行こうと誘って、よかった。

 私が着物を脱いで居間に戻ると、ライが炬燵の中でなにやらごそごそしていた。私を見た途端ひょっと耳を立てて、慌てて手を炬燵の中に突っ込む。何を隠したのやら。気がつかなかったふりをして、私は姿が見えない彼のことを聞いた。
「伯父さんは?」
「なんか電話で呼び出されて帰っちゃった。よろしくだって」
「そう……」
 いまだに何をやっているのか教えてくれないが、それほど急いで帰ったのだからおそらく仕事関連だろう。車を運転して疲れていただろうに。お礼を言う時間も労わる時間もなかった。
 私が炬燵に入ると、ライはびくりと身を強張らせる。どうしてこう、ばかなのだろう。
「ねえライ」
「な、なあに姉さん」
「お茶淹れてくれる?」
「わかった」
 ライはぎこちなく立つと、こちらを何度も振り返りながら台所に行く。
「どうしたの?」
「いや……なんでもない……」
 私が両手を炬燵の上に出すと、安心したのかほっとした様子で尻尾を振りながら湯呑を二つ持ってきた。その隙に尻尾でライが座っていたところを探る。すぐに炬燵布団とは違う硬い感触に辿り着いた。行儀が悪いけど、足でそっと引き寄せる。手触りと大きさからして、何か四角いものが入った茶封筒のようだった。
「姉さん?」
「なんでもないわ。早く入っちゃいなさい。寒いでしょ?」
 ちょっと悪いかなと思いながら、手元に引き寄せる。炬燵に身を沈めた途端ライはばっと私を向いた。その様子があまりに必死なので、身構えてしまう。
「ライ?」
「ね、姉さっ、その……えっと……あー……」
「……お探し?」
 私が封筒をこれ見よがしに持ち上げると、ライは凄い勢いで手を伸ばしてくる。興奮しすぎて爪まで出して、その爪が封筒に突き刺さって、すぱりと斬り裂く。中に入っていたDVDのケースが三枚、炬燵の上に散らばった。
「ふぎゃーッ!」
 絶叫するライに構わず、私はDVDを拾い上げる。
 毒々しい赤で縁取られたパッケージでは、布一枚まとわぬ身体を紅い縄でぐるぐる巻きににされた犬人の女性が涙を湛えた瞳でこちらを見つめていた。
「ライ?」
「えっあっうっ」
 三つあったケースを全て私に回収され、この世の終わりのようにライは手を震えさせるばかりだ。最初に手に取ったケースを、たん、と突きつける。
『緊縛二十四時間密着取材〜紅い縄〜』
「ネクタイも結べないくせに、私をこんなふうに縛ってみたいわけ?」
「少し……」
 縛ってみたいのか。みたいのか。まったくもう、不器用な仔でよかった。
『盗撮真実公衆便所! あんな仔が、こんなのを〜月触の仮目羅〜』
「……まさかとは思うけど、トイレにカメラとか仕掛けてないでしょうね」
「まだ……」
 まだってなんだ。まだって。そんなもの見つけたらさすがに許さないぞ。
『一発三万私立のお嬢様コヅカイ稼ぎ〜私制の聲〜』
「私にこんな制服着せたいの?」
「さすがにその年で制服は厳しいものがあるんじゃないかな」
 すかさず髭を引き抜こうとする私の手を弟は華麗に飛び退って避けた。失礼な。制服を脱いでまだ三年足らず、プロポーションも崩れていないしまだ着れるはずだ。さすがに恥ずかしくはあるけれど。
 飛び退った勢いで土下座している弟に、私は言葉で圧力をかける。
「で?」
「おっ、伯父さんが……お年玉ってくれて……これ見て勉強しろって……」
「……そうだろうとは思ったわ」
 私の中でライを育て間違えたらこうなったんだろうという伯父の評価が下落していく。正月早々、エロビデオで何を勉強しろというのか。大方私以外の女に興味を持たせようとでもしたのだろうが、私の弟が別方面の変態に目覚めてしまったらどう責任を取ってくれるつもりなのか。この様子ではやはり頼りになりそうもない。
 とりあえず、私はDVDを三本とも揃えて破れた茶封筒に戻した。
「全部没収します」
「見るの?」
「見ません!」
 DVDで頭をごつんと殴るとにゃーと鳴く。多分これは、よく知らないけれど、だいぶ、まにあっくなものだ。せめて持ってくるなら持ってくるで、もっと普通の、普通に男と女がベッドでしているような、そういうものをどうして持ってこなかったのか。改めてむらむらと怒りがわいてくる。
「大丈夫だよ! 俺姉さんじゃないと興奮しないから!」
 顔をあげて全く大丈夫じゃないことを誇らしげに告げるライの頭をこつんと叩く。情けなくなって、私は炬燵に突っ伏した。頭をさすりながらライは炬燵に入り、期待に満ちた視線を私の手元に送ってくる。ちらちらと、テレビの方を気にしながら。まさかとは思うが、一緒に見ようと言うつもりだろうか。ゆっくりと開かれるその口に、私はDVDを突っ込む用意をした。





ジョウホウ